一人ではやめられなかった!


*400字×20枚・8000字 *

・2003年10月に発行された本(東峰書房)から・
(少し長いです)
 

病院へ向かう足どりは重く地面にへばりつき、地面からは真夏の太陽がギラギラと照り返す。これから一体どうなるのだろう。もう駄目だ!頭の中は混乱していた。
平成7年7月24日姉に付き添われて病院へ向かったあの日の思い、あの時の太陽の痛さはいまも忘れない。
 《 アルコール依存症・コントロール障害 》思いがけない病名を宣告された。飲み続ければ最後には生命を落とす、進行性の恐ろしい《病気》であると。長い間飲み続けた酒。少しづつおかしくなっていく自分に気づき、もう酒は飲まないと思いながらどうしてもやめることができなかった。そして全てを失った。アルコール依存症についての知識を勉強し、断酒の意志を固めるため、3ヵ月間の入院生活を送った。夏から秋へ、酒のためにいつの間にか忘れかけていた《季節 》を感じながら。


 私たち家族は台湾からの引き揚げ者で私は4人姉妹の3番目、今年62歳です。村を縦断する川そして田んぼと山。自然に囲まれた小さな村で、なんとなく貧しさに疑問を感じながら、真っ黒になって野山を駆け回っていたとても元気のいい女の子でした。小学校入学直前に両親が離婚して母は私に白いヅックのさげ鞄とクレヨンを残して去り、成人後には母との交流もできましたが、何故かいまだに心から母を許せないのです。(↓母の生家と近辺)

高校を卒業して姉の住んでいた栃木県に移り、建設会社に就職し始めて飲んだ酒の味は覚えておりませんが、体に合わなかったのでしょうかジンマシンが出たのです。体質改善とばかりに男の人たちに何度も酒の席に付き合わされているうちに、本当に飲める体になっていったのです。19歳の頃でした。


 10年後に通信教育で学んだ技術を活かしてスクリーン印刷の仕事に転職しましたが、まさか酒のために会社を退職することになるとは夢にも思いませんでした。転職後は県人会で知り合った人たちも飲み仲間となり、飲む回数と量が増えて夜は毎晩飲み歩くようになりました。37歳の時会社には黙って夜のアルバイトに行き、半人前のホステスとなって酒に浸ってしまい、閉店後にはお客さんやママたちと飲み歩くことまで覚え午前2時、3時に帰宅してベットにもぐり込む。濁った目、酒臭い息、汚れた体。朦朧とした頭のままで、仕事などできるはずがないひどい朝でも会社に行かなければと思い、震える手でハンドルを握り車を走らせました。

                                            
 誘われれば飲酒運転を承知で平気で出かけて行く。朝になるとどこでどれだけ飲んだのか、どうして帰ってきたのかわからず財布の中を調べたり、窓のカーテンをあけて車はあるだろうかと探したりしていました。子供のころ父が酒を飲んでひどく酔って帰り、次の朝何も覚えていないと言ったときそんなことは絶対に嘘だ!と思いましたが、いつの間にか自分もそんな経験をするようになっていたのです。ブラックアウト( 入院して初めて知った言葉 )を何度もするようになってしまい、酒のために少しづつおかしくなっていく自分に気づき始め、会社から姉の方に注意の電話が掛かるようになっていました。


 二日酔いの朝最初の交通事故を起こしてしまいました。あっ!と思ったときはオートバイの青年が宙に舞い上がり、車のボンネットの上でバウンドして地面に落ちました。彼の履いていた立派な分厚いブーツが無残に裂けて、変な形になった足でぐったりして動かない姿を見てぞくっとしましたが、私は酒臭いのがわかってしまうことを心配して震えていました。宙に舞い上がったあのときの彼の姿はいまでも目に焼き付いています。


 通勤途中自動販売機の前に車を止めてワンカップを買い、蓋をあけるのももどかしく一気に飲み干し、2、3本は車の座布団の下に隠して置く。昼休みにデパートの屋上に行って飲み、昼寝をして時間を忘れ慌てて戻ろうとして車をぶつけてしまう。机の引き出しに酒を持ち込みトイレの中や更衣室は勿論、来客用のソファで飲み寝込む。飲み方はどんどん異常になり、本当に手のつけられない状態になっていきました。朝会社に行くと「帰っていい!」と言われ、同僚に送られて帰宅した日、部長にデパートまであとをつけられ無言の叱咤を受けた日も、『もう酒は絶対飲まない!』と自分に誓いました。でも、駄目でした。


 会社の二十周年式典の翌日は、私の所属するスクリーン事業部に、支店や営業所の社員が集まって、スクリーン印刷の技法の説明や実演などをして見せる大切な日でした。式の宴席ではどうにか醜態だけは見せずにすみましたが、その夜は家に帰らず朝まで飲み、二日酔いでむくんだ顔にぴったりの、いままでに、一度も着たことがないような友人の服を借り、だらしない格好で遅刻して出社し、朦朧とした頭のままで過ごしたその日のことも、はっきりとした記憶がありません。


 ワンカップを買っているうちはまだ良かったのですが、ワンカップでは買うのも蓋を開けるのも面倒になり、紙パックの大きいのを買ってビニールの袋のまま両手で持ち、信号で車が止まるたびに好きなだけ飲んで空き箱は全部車のトランクに投げ捨てていました。こぼれた酒やゴミ捨て場になっているトランクの中の異様な臭いに、しらふの時のほんの少しの間私は顔をゆがめていました。


 酒にすっかり心を奪われてしまい人間らしさは皆無となり、運転免許が取り消しになっても懲りず一年間の免許停止期間を待って二日酔い状態で学科試験を受け、運良く合格して、また運転を続けていました。 夜中の2時ごろ駐車場から飛び出し道路を曲がり切れず他人の家の垣根の中へ、綺麗に飾った盆栽の上から雨戸を破って突っ込んだまま、車から抜け出し歩いている所をお巡りさんに呼び止められたり、田舎へ帰るために乗った高速道路の途中でガソリンがなくなった車を放置して歩いていたり・・・、数えあげたらきりがない程の信じられないようなことをして、大変な迷惑をかけるようになってしまいました。


 『酒を飲まないように』『病院に入院するように』と言う会社や姉たちの言葉に、病院と聞くと鉄格子のある精神病院が目に浮かび、絶対にそれだけは嫌だと拒否して言い続けてきた言葉、『病院へは行かない!必ずやめる。今度こそ必ずひとりでやめてみせる!』そう心に誓って誓約書を書いても酒の魔力に負けて約束は守れませんでした。でも約束をするそのときの気持ちその言葉は決して嘘ではありませんでした。
 酒の力を借りなければ何もできなくなっているのに、「なんでこんなに飲むのだろう。酒さえ飲まなければ、酒さえ飲まなければ、仕事での実力は優秀なはずだった』などと、どうにもならないことを考えたりしました。


 病院だけはどうしても行きたくなかったのでひとりでやめるしかなかったのですが、このままでは絶対にやめられないかもしれない!と思っていました。今日は飲まない!と朝は思うのですが、夕方になると今夜はこれだけにしよう!と心が変わり、飲みだすともっと飲みたい!と、ついスーパーに足が向いて酒を買い、食事もせずに飲み続けてしまうのです。


 そんな日々を重ねて会社で仕事ができるはずがありません。上司や同僚に何度も、いいえ、何年もかばってもらいましたが、『これで最後』と交わした誓約書もやはり守れず、平成5年9月、長い間愛してきた仕事を失いました。そして自分自身も・・・・・・。


 退職後も酒と闘い続けていました。平成7年3月末、ブラックアウト状態で市内を五台の車にぶつかりながら走り、夕方で混雑する狭い交差点にパンクして動かなくなった車を乗り捨てて家に帰っていました。後始末には姉がきてしてくれたらしいのですが覚えていないのです。雨が降っていたようでした。後日警察に呼ばれて机の上に並べられた五件の事故の書類を見せられ、聞かされても、その時はまだ自分がしたことの重大さを感じていませんでしたが、自分の車が全く信じられない姿でトラックの上に乗っているのを見たときは、これが現実なのだと頭を打ち砕かれ、『ああこれで終わった』と思いました。


 もう死んでもいいと思い飲み続けても、目が覚めると見るに耐えない魂の抜け殻が横たわり鏡の中に映っていました。身元の判明するものを何ひとつ持たずに列車に乗っても、いつも空白の時間や日にちのわからぬままで家に辿り着き、車に乗っては借金のおまけがついて命は残りました。自分にはわからない、《与えられた運命》だけは、しっかり生きなければ、死ねないのかもしれないと思いました。


 断酒どころか連続飲酒となり、酒は私から時間を取り上げたのです。雨戸を閉め切った酒の闇の中で、夜飲み始めた酒のために自分自身を失くし、あとは朝も昼もなく、眠くなったら横になり、トイレに立つ気力などなくビンに触ればまたあおり、飲んでも受けつけず、全部吐き出してしまうまで飲みました。
近所に住んでいた妹がきて『そんなに酒が好きなの!』と声を震わせて怒鳴り、『好きで、飲んでるんじゃないよ!』と私は叫んでいました。
                                         

 そんな夏のある日、妹夫婦に両腕をつかまれ裸足のまま引きずられて車の中に押し込まれ妹の家に連れて行かれました。私は暴れながら、『イヤダ!イヤダ!』とわめきましたが、本当はそのときを待っていたのかもしれません。


 《栃木県立岡本台病院・アルコール病棟》それは姉たちが私のために調べてくれた病院でした。ヒマワリもコスモスの花も酒のためにすっかり忘れかけていたが、夏から秋へ変わり行く季節の中で花の美しさを感じながら、依存症について勉強し、断酒の決意を固めるために3ヵ月間の入院生活を送った。《依存症》《コントロール障害》初めて聞く言葉であり、《病気》だと言われ信じられなかったが、病気なら治すしかないと思った。『もう酒は飲まない!』と約束しても、どうしても守れなかった自分を責め続けたが、それは意志とは関係なく、コントロール障害であったとわかり、少しだけ救われ、これから《断酒》していくためには自分の気持ち次第であり、意志を強く持たなければいけないのだといい聞かせた。


 《あなたは、あなたの意思で入院の契約をされました。・・・・・治療に専念して下さい。》病院から渡されたレジュメには書かれていた。六時起床、ラジオ体操、病棟内清掃、朝食・・・・・日課表に基づいた規則正しい生活が始まる。抗酒剤服用、自治会ミーティング・・・・・。ボヤーッとした頭でこれが《治療》なのかと思い、「あー、そういえば、こんな、時間に追われた生活はすっかり忘れていた」と思った。


 病棟には12、3人の男性がいた。病院なのだから仕方がないと思いながら居心地が悪かったので、いつも一人で病室から外を眺めているか、ベットの上でボヤーッとしていた。ひとりでに涙があふれてくる。何が悲しいのかと自分に問いかけた。迷惑をかけてきたことを申し訳ないと詫びる涙ではなかった。はたして酒はやめられるだろうか?仕事もなくなってこれから一体どうなるのか。なんでこんなことになってしまったのだろう。反省はできず、不安と後悔ばかりが頭の中で渦をまいていた。
 「俺は焼酎を一日○○本飲んだ!」などと、ロビーの方で話している男性たちの陽気な声が病室の中まで聞こえて無性に飲酒欲求に駆られ、その話を聞くのがとても嫌だった。そして、もしかしたら私と同じような人がいるかもしれない、だから院内では、飲んでいたときの話をするのはやめよう、と、そのとき思ったのを覚えている。


 半月ほどして女性の仲間が入院してきたが「私は9回目の入院だ!」と言い、自分だけで決めたフロアでの座席があるらしく私が知らずにそこに座っていたら叱られたことがあった。私は「入院は一回だけ、この人のようにはなりたくない」と思い「がんばろうね」と声を掛けたが、間もなく外泊から帰らず退院となり、その後も入院を重ねて、残念なことにやはり命を落としてしまった。彼女とは自助グループに一緒に出席し、落し物か忘れ物なのか宇都宮の駅で、かわいいミニカーを見付け遅い帰りの電車の中でゼンマイ付きのそのおもちゃで盛り上がり、わけもなく、二人ではしゃいでしまった思い出がある。


 入院翌日から日課表通り院内での勉強会にも参加した。読書会やビデオ鑑賞などで使用していた部屋『集団療法室』ではいつも泣いてばかりいたので、退院後その部屋で行われた断酒例会に参加するのがつらく二年近く出席できなかったが、断酒を決意し踏み切れた大切な言葉をたくさん頂いたのもこの部屋である。スタッフの方の『気づき』と言う言葉。そして、断酒会の人が話してくださった『夏は冷房、冬は暖房、三食昼寝付きのホテルと勘違いしてはいけない。この病院に入ったからにはアルコールで問題をおこしているはず、きちんとした目的意識を持つように』という厳しいような当たり前の言葉である。
 『“どうすることもできない過去のことをくよくよするよりも、これからこうすることが肝心だ”』ということに初めて気が付いた。私の未来はバラ色だと言ったら若い人に笑われるであろうが、私の今の心境はそうなのだ。何故なら私は酒とプッツリ縁を切ったからだ。』断酒会に入会して古い機関誌を頂きその中にこの文を見つけて感動し、私もこうありたいと思い、モヤモヤとした気持ちが吹っ切れた。
 この文を書いた方は54歳で断酒会に繋がり、会の発展のために尽力され、平成11年84歳で永眠された。私の目を覚まさせて下さったのはこの方だったと思う。


 院外への自助グループ参加は入院して5日目から始まり、3ヵ月間に週3、4日は県内のA・Aや断酒会の例会に出席した。断酒会の多くの人たちが20年、25年と断酒継続して新しい人生を歩いている姿に接してもみんな本当に酒で苦しみ、家族を泣かせてきたのだろうかと思わせる人ばかりだった。
 例会の『自由意思の交換』では、私がしてきたようなひどいことやそれ以上のことを、まるで自慢話でもあるかのように話し、家族の方々も「本当にひどかったんですよ」と笑って話している。何故自分でしてきた恥ずかしいことを話さなければならないのかと、とても嫌で、何も話さず、何も話せずに涙ばかりが流れた。何故だろう?信じられないような非人間的だったときの自分をさらけだしている。『普通の人』に話しても分かって貰えるはずがない。この場所だから話せるのかもしれない。
 自分を正直に語る場所。治療して回復していく場所。《例会場》は《病院》であり、みんなの体験談は《クスリ》なのだ。《病院》へ通い、数多くの《クスリ》の中から、自分に合ったものを選び回復につなげるのだ。自分をさらけ出し過去の非を語ることが、大切であり、必要なのかもしれない。と、私なりに考えたが、私には家族の人たちの目が、『女のくせに・・・・・』と言っているようでとてもつらく、入院中に参加した例会場での自由意思の交換では自分の過去を話すことはできなかった。



 二ヶ月が過ぎてもまだボヤーッとしたままで過ごしていたが、断酒会の例会に出席しているうちに、もしかしたら、本当に酒をやめることができるかもしれないと思い、ほんの少し退院後のことも考えられるようになった。退院前のプログラムの酒歴発表で自分なりに断酒の姿勢を書いたつたない文の一部がある。『体験談の中で失敗した人の話で、お母さんのため、奥さんや子供さんのために断酒しようと思ったが、駄目だったと言った人がいましたが、何故それがいけなかったのか不思議でした。

 《日課表》で朝の掃除は当然やるべき規則として何も考えずにしてきましたが、ある日ふと思いました。掃除は誰かのためにするのではない。いますべきことであり、いま自分が綺麗にしたい、しなければならないことだからしている。その結果綺麗になったと喜んでくれるかもしれない。そうだ!断酒もそれでいいのではないか。誰かのためにしたくもない断酒をしてもその誰かは見てもほめてもくれないし、苦しくつらいばかりで、おもしろくない。自分がすべきことをする。自分のためなら周りは気にならない。格好をつけずありのままの姿でいい、断酒はこの姿勢で歩いていきたい。』


 断酒の決意はできたものの、はたして本当に断酒していけるのだろうかと、大きくふくらんでいく不安を抱いたままで、平成7年10月23日退院し、断酒会に入会した。


 『酒は飲まない』と何度約束しても守れなかったが、それは病気だったとわかった。でもこれから断酒していくためには『意志を強く持たなければいけない』と、何度も言い聞かせたはずなのに、退院直後は酒のことが頭から離れず、その上仕事のない毎日をどう過ごせばいいのかわからず、何をする意欲も気力もなく、もう私には明るい未来はないと、立ち止まったままの暗い日々でした。

 
 断酒会に入会して頂いた本「指針と規範」の中に、断酒会は誰かの指導でやめ方を学んでいるのではない。本音で話し合える仲間として、お互いが助け合い、励ましあい、啓発しあって、新しい生き方を目指している。信頼関係が得られるために酒がやめられるとあり、断酒を重ねているうちに過去の酒害体験を話すことが、非常に重要なことだと自分でわかるようになる、と、ありました。 それは入院中の自助活動で断酒例会に出席してなんとなく感じていたことでした。一人ではどうしてもやめられずに長い間苦しみましたが、いまは酒を飲まずに《人間らしい・普通の生活》を送ることができています。例会出席を重ねて、断酒会の皆様に励まされているうちに、自然に自分の過去も話せるようになりました。
 あのまま飲み続けて命を落とすより、断酒をして生まれ変わり、多くの人と巡り会い、生きる喜びを実感しているいまは、依存症になって(診断され)良かったとさえ思っています。


 『寒い!』と思って目が覚め、うっすらと雪の積もった道端に寝ている自分に気がついたとき、『死んでもいい!』と思い飲み続けても命が残ったあのとき、自分にはわからない、与えられた運命を生きなければ死ねないのかもしれないと思ったように、残された人生が、あと何年かはわからないけれど精一杯生きてみよう。生きていくためには断酒するしかないのなら、素直にその治療をしよう。取り返しのつかない過去。取り消すことのできない、思い出したくない過去。それは決して忘れてはいけないことだと思います。


 断酒会に入会して多くの方々に励まされ、支えられて、やっと8年目を迎えることができました。
いまは、自分を取り戻し酒を飲まずに生きていける自信もつき、元気に回復しているアメシスト(女性酒害者)とともに《とちぎアメシスト会》を結成して新しい道を歩き始めております。基本である『一日断酒』『例会出席』を怠らず、断酒誓約の中にある、『反省・感謝・報恩』を胸に、皆様から頂いたお力を、いま苦しんでいる人々にお返しできるよう努力してまいります。


 ときには走る凶器と化し、無謀なことをしてきました。本当に申し訳なく深く反省して
 おります。
 身勝手な言い訳ですが、酒の魔力に負けた、別の私が起したことと、お許しください。
 このようなひどい生き方(飲み方)をしてきた私です。
 《依存症》は必ず回復できる(生涯断酒しかありません)《病気》であることをお知らせし、
 二度と愚かな人間に戻りたくないという思いを込め、敢えて発表をさせて頂きました。
 この場を与えて頂きましたことに深く感謝し、お礼を申し上げます。
 ありがとうございました。                                      

                                               終わり


長い間お付き合いありがとうございました。

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